坐禅入門について
東京、白山の白山道場の好意により白山道場で編集作成された坐禅入門を 紹介いたします。この坐禅入門は短い文章で大変解りやすく書かれています。
白山道場 坐禅入門
禅語に「一心生ぜざれば万法咎無し」と言う。元来、人間と大宇宙は一体 のものであるが、人間に自己という意識が生じたときから、この世界は迷いの 相対世界となった。この意識のために主観と客観が分かれ、自己と世界が対立 する事になる。これが迷いの根本であり、ここに立脚したすべての思想は果て し無い迷路に陥る事になる。そして人間は、直接的に世界に対することをせ ず、言葉(概念)を通して世界に接するようになったため、元々は何の矛盾も ない世界が、人間には苦しみや不安に満ちたものとして見える。そこには生と 死の対立があり、そのため私たちは死後の魂の有無に迷うことになる。又、言 葉を通して観た世界には自己と世界、禅と悪、苦と楽、迷い悟り、男と女、有 無、上下、左右・・・・・と無限の対立した事象が成立する。しかし、本当は この世界のどこにもそのような区別はない。ちょうど地球上のどこにも国境線 など無く、ただ地図上にだけそれが書かれているように、それらは人間の心の なかに言葉(概念)としてだけ存在する。
坐禅とは、この言葉の渦巻く心を静めて自己と世界の元来の一体性を取り戻 し、本当の自己に出合うための行為である。
そこで具体的な坐禅の心得を調身、調息、調心の三点から説明する。
(1)調身—体を調える—
坐り方には結跏趺坐、半跏趺坐、正坐の三種類がある。
[結跏趺坐] 尻を尻あて(座布団を二つに折ったものでよい)にのせ、右 足を左腿の上に置き、左足を右腿の上に置く。足の上下は逆でもよい。この坐 法が本来の物である。
[半跏趺坐] ただ左足を右腿の上に置くだけでよい。これも足の上下は逆 でのよいが、下の足をなるべく深く入れて、上の膝が浮かないようにする。
[正 坐] 女性は正坐でもよい。この場合、尻あてを縦にして両足で挟 むようにると楽に坐れる。
一身生:いっしんしょう 万法咎無し:まんぽうとがなし 結跏趺坐:けっかふざ
半跏趺坐:はんかふざ
次に手をおさめる。正式の法界定印は右手の上に左手を載せ、親指の先を軽 く合わせる。しかし臨済宗では古来より右手の四指を右手で挟み、左手の親指 を右手で挟む形で坐ることが多い。このどちらを取るにしても手を、下腹にき ちんと付けて坐ることが肝要である
手をおさめたら次に背筋首筋をスッと伸ばし、腰を軽く前に突き出すように して上体を真っ直ぐに立てる。この時、体が大地に対して垂直になるように し、前後左右に傾いてはならない。そして顎を出したり、又うつむきすぎたり しないように首筋を伸ばし、軽く顎を引く。この正しい姿勢のまま肩や胸、そ して胃などから力を抜く。坐禅中の呼吸は鼻でおこなう。唇と歯は閉じて、舌 を上顎に付ける。
坐禅中は目を閉じてはならない。前方50センチから1メ-トルのあたりに、 視線を自然に落としておく。これを半眼という。
初心の間は足や腰が痛くてなかなか正しい姿勢で坐れないが、ここに安易に 我流のだらしない坐相をとると、後々かえって苦労することになる。心身一 如、体が曲がれば心も曲がり、深い禅定や三昧境には入りにくくなる。
肝要:かんよう 顎:あご 半眼:はんがん 心身一如:しんしんいちにょ
禅定:ぜんじょう 三昧境:ざんまいきょう
(2) 調息—-呼吸を調える—
坐禅の呼吸は丹田呼吸といい、出る息を臍下丹田から静かに長く吐き出し又 深く臍下丹田まで吸い込む。ス-ッと長く静かに吐き出し、スッと短く深く吸 い込む。天台の小止観に「これを調えんと欲せば、一には下に著けて心を安ん ぜよ。二には身体を寛放せよ。」とある。この呼吸を自然に滑らかに続けるた めの要点は、心を丹田のあたりに落ち着けることと、正しい姿勢で上体の力を 抜くことの二点である。
丹田:たんでん 臍下丹田:せいかたんでん 小止観:しょうしかん
寛放:かんぽう
(3) 調心—-心を調える—-
1 数息観 これは息を数えて精神の統一をはかる方法であり、初心の修行者 はこれから始めると良い。前述の丹田呼吸を行いながら、心を臍下丹田に置 き、そこで呼吸を数えるのである。息を吸いながら心のなかでヒト-ツと数 え、長く吐き出し又吸うときフタ-ツと数え、長く吐き出し、ミ-ツと吸う。 これを一つ、二つ、三つ・・・・十。十まで数えたら、又一つに返り二つ三 つ・・・・十。これを繰り返し繰り返し行う。又、反対に吐く息だけを数えて もよいし、呼気、吸気を合わせて吐く息をヒト----、吸う息をツ-、また 吐きながらフタ----、吸いながらツ-と数えても良い。この数息観の要点 は、ただ息を数えること、数える自分も数えられる呼吸も無くなり、数が数を 数えるという処まで数に徹底することである。
2 随息観 数息観をしばらく続けた後、修行者は随息観に移行すると良い。 数息観では出入りの呼吸を数えたが、この随息観はただ呼吸に精神を集中する だけである。これは初心の間はなかなか呑みこめないが、ただス-ッと吐き、 ス-ッと吸う。吐くときは吐くことに成りきって吐き、吸うときは吸うことに 成りきって吸う。呼吸に成り切ったとき、天地一杯ただ呼吸が有るだけである。
調心:ちょうしん 数息観:すうそくかん 随息観:ずいそくかん
—-雑念が起こったら—-
しんと静まった禅堂で坐禅を組むと、初心のうちは次々と雑念がわき上 がってくる数息観に集中しようとしてもなかなか十まで続かず、気がつくと他 事を考えている。それを何とか押さえ込もうとしても、様々な念いが嵐のよう に襲ってくる。こんな時は、その雑念を無理に止めようとしないことである。 初心者ほど雑念に敏感で、「あ雑念が出た。あ、又出た。」と非常に気にする が、これが一番悪い雑念である。人の念というのは泡のようなもので、とりと めのない思いがパッと出てはパッと消え去る。
これは長年修行を積んだ老師方でも同じで、人の心の自然な姿である。大切な のはその泡のような念に執われないことである。パッと浮かんだ念には善し悪 しは無い。ほっておけばスッと消え去るが、それに執われて二念を継げば雑念 になる。心は例えれば泥水のようなもので、これに手を入れて澄まそう澄まそ うと掻き混ぜても益々濁るだけである。三十分も放っておいて仕事でもしてい れば、自然に澄んでくる。坐禅中の雑念も同様で、それに付いて廻らずに数息 観や随息観に専念していればよいのである。
しかし、どうしても雑念が気になって仕方がない場合は、その念の起こる元を 観てみるとよい。つまり「この念いずれより来たる。」と、念の起こる源に念 を集中するのである。元々この念は根無し草であるから、これで雑念は消えうせる。
雑念:ざつねん 掻き混ぜ:かきまぜ
–軟ソの法– 軟ソの法は、白隠禅師の「夜船閑話」に説かれている観法で、元来は激しい 修行で体調を崩した雲水のための行法である。その眼目とするところは、頭や 胸に上ってしまった「気」を丹田などの下半身に降ろすことにある。この軟ソ の法を実行すると臍下丹田に自然に気が集まるので、この呼吸を呑み込めば丹 田に気を込めようとして不自然な力を下腹に入れて坐わる、一部に伝わる悪弊 から初心者を救うことができるであろう。ただし、これはあくまで本式の坐禅 の補助的な観法であることを一言していかに大要を示す。
まず背筋を伸ばして坐る。そして色や香りの清浄な卵大の軟ソ(バタ-のよう なもの)をイメ-ジする。これには様々な香りたかい生薬が溶け込ましてあ る。この軟ソを頭のてっぺんに置く。これが体温で徐々に溶けはじめ、頭全体 にしみ入り潤しながら下りはじめる。これが侵々として潤下して、両肩、両 肘、さらに両乳、胸の中、肺肝臓、胃、腸、背骨から尾てい骨と、次第に浸し 下る。この時、胸中や五臓六腑の患いや痛み、気の滞りなどが、心に随って下 がってゆく様子が、ちょうど水が流れ落ちるような音ではっきりと聞こえる。 全身を浸し、両足を温め潤して、足の土踏まずにいたって止まる。そして、続 けて次のようにイメ-ジする。この侵々として潤下した余流が、積もり積もっ て足から臍までを温め浸す。これは丁度、様々な妙香の生薬を湯で煎じて風呂 桶に入れて、じっと臍まで漬かり浸ったようなものである。この観をなすと、 じつに良い香りがして、また身には軟ソのすばらしい肌触りを感じる。心身は とても爽やかである。ここに至れば、五臓六腑は健やかになり、胃腸は調い、 肌に光沢を生じる。この軟ソの法を続けるならば、心身共に健やかに修行を続 けることができる。
軟ソ:なんそ 白隠禅師:はくいんぜんじ 夜船閑話:やせんかんな
観法:かんぽう 行法:ぎょうほう 眼目:がんもく 悪弊:あくへい
大要:たいよう 潤し:うるおし 潤下:じゅんか 五臓六腑:ごぞうろっぷ
滞り:とどこうり 随って:したがって 余流:よりゅう 臍:へそ
–足が痛いとき–
坐禅中の足の痛みは、坐禅に慣れるに従い徐々になくなってゆくので、始め のうちは辛抱するしかない。しかし、長年坐禅に親しんだ人でも接心などでは 時には耐えかねることもある。坐禅や三昧は一つに徹した状態であるから、本 当に徹底していれば痛みに気がつかない。この「痛い」という意識は、「自 分」と「痛み」が二つに分かれたときに発生する。そこで、思い切って「痛い 三昧」に入ってしまうのも方法である。数息観や随息観を一時中断して、意識 を「痛い」に集中するのである。臍下丹田に気を集め、そこで「イタイイタイ イタイイタイイタタタタ-ッ」と、自分を忘れ、世界も消え失せるまで「痛 い」に成りきるのである。
接心:せっしん 三昧:ざんまい
–継続について–
「一寸坐れば一寸の仏、寸々積もって丈六の金身となる」というが、坐禅に は継続が必要である。禅堂へ来たときのみ坐禅するのではなかなか力は付かな い。自宅で毎日時間を決めて、十五分でも二十分でも坐わる。長距離通勤のサ ラリ-マンなど時間が取れない人は、行き帰りの電車のなかで、立ったままで もいいから、呼吸を調えて数息観や随息観をやってみる。或いは、電車の雑音 と一体になってみる。心を虚しくして、ただ「ガタンゴトンガタンゴトン」と いう音一枚に成る工夫をしてみる。うるさい車中の方が、静かな禅堂よりも案 外集中しやすいし、定力も付くものである。
丈六:じょうろく 金身:こんしん 定力:じょうりき
制作
白山道場 直心禅会
監修
小池心叟 老師
表紙「這裡従り入れ」(ここから入れ)
平成5年7月1日