開山大覚禅師法語規則
< 大覚禅師が坐禅実施上の厳重な規則が必要と考え僧堂修行者のために作成した物です。
有名な祖録などは本で出てますが、大覚禅師の物はなかなか読む 機会はないと思いUPしました。
開山大覚禅師法語規則 和訓
鞭影を見て後にいくは、すなわち良馬に非ず。訓辞を待って、志を発するは、 実に好僧に非ず。諸兄弟同く清浄の伽藍に住して、已に饑寒の苦しみ無し。當 に此の事を以て[玄玄]を念うこと[玄玄]に有るべし。若し眼光将に謝せんとす るの時、その害甚だ重し。所以に古人道く、饒ひ汝諸子百家三乗十二分教に通 ずるも、汝が分上に於て、並びに済ふことを得ず、若し無漏の道を体めば、現 在当来、誠に廣益を為さん。且つ無漏の道、作麻生か体めん。毎日一個の屍骸 をいて、上々下々喜笑怒罵、更に是れ阿誰そ。百人の中、真実此に於て 、頭 を回し、返照する者鮮し。纔に不如意の事あれば、便ち瞋詬して行く。此の如 きの者、何ぞ止一二のみならん。参禅弁道は、只此の生死大事を了せんが為な り、豈沐浴放暇の日も、便ち情を恣にして懶慢す可けんや。長老首座区々とし て力め行って、誰が家の事を為すと云うことを知らず。仏袈裟を[才圭]け、信 施の食を受く、苟も見処無くんば、侘時[哉-口+異]角披毛千生、万劫他に償ひ 去ること在らん。今より後沐浴の日も、昏鐘鳴より二更の三点に至り、四更に 転じ、暁鐘の時に至るまで並びに坐禅を要す。堂に皈せず、寮に趣く者は、罰 して院を出さん。堂中行う所の事略一二を呈す。 各々宜しく自ら守るべし。 この規を犯すこと勿れ。謹んで屯に奉聞する的文具に非ず。
住山蘭渓道隆白す
* [ ]内は一文字の漢字 [才+施-方]:才は手辺、侘に同じ [哉-口+異]は口の所に異がはいる
*若しの前に「不(オオイ)に」があったが意味上必要ないということでいつの間にかきえたらしい
*道隆直筆のものには寮ではなく「衆」とある
かいさんだいがくぜんじほうごきそく わくん
べんめいをみてのちにいくは、すなわちりょうめにあらず。くんじをもってこ ころざしをはっするは、じつにこうそうにあらず。しょひんていおなじくしょ うじょうのがらんにじゅうして、すでにきかんのくるしみなし。まさにこのじ をもってこれをおもうことここにあるべし。もしがんこうまさにしゃせんとす るのとき、そのがいはなはだおもし。このゆえにこじんいわく、たといなんじ しょしひゃっかさんじょうじゅうにぶんきょうにつうずるも、なんじがぶんじ ょうにおいて、ならびにすくうことをえず、もしむろのどうをきわめば、げん ざいとうらい、まことにこうやくをなさん。かつむろのどう、そもさんかきわ めん。まいにちいっこのしがいをひいて、しょうしょうげげきしょうとめ、さ らにこれたそ。ひゃくにんのうち、しんじつここにおいてこうべをめぐらし、 へんしょうするものすくなし。わずかにふにょいのじあれば、すなわちかくこ してゆく。かくのごときのもの、なんぞただいちにのみならん。さんぜんべん どうは、ただこのしょうじだいじをりょうせんがためなり、あにもくよくほう かのひも、すなわちじょうをほしいままにしてらんまんすべけんや。ちょうろ うしゅそくくとしてつとめおこなって、たがいえのじをなすということをしら ず。ぶっけさをかけ、しんじのじをうく、いやしくもけんしょなくんば、たじ たいかくひもうせんしょう、ばんごうたにつぐないさることならん。いまより のちもくよくのひも、こじめいよりにこうのさんてんにいたり、しこうにてん じ、ぎょうしょうのときにいたるまでならびにざぜんをようす。どうにきせ ず、りょうにおもむくものは、ばっしていんをいださん。どうちゅうおこのう ところのじほぼいちにをていす。おのおのよろしくみずからまもるべし。この きをおかすことなかれ。つつしんでここにぶもんするていぶんぐにあらず。じ ゅうさんらんけいどうりょうびゃくす
開山大覚禅師法語規則 提唱
これからの内容は昭和17年4月1日より三日間にわたり建長寺専門道場に於 いて行われた、曇華軒喜壽報恩接心において菅原時保禅師が提唱を速記したも のを老師の喜壽報恩接心記念壽搭の序幕に際して配られた
建長開山大覚禅師法語規則拝講
を元にしています。
昭和18年に千部しか発行してないこの本は師匠(住職)の宝であったのですが このたび借りて来ました。
内容が長いことと提唱中に雲水に発した言葉や激などが有るのでその辺は、私 の独断で省略、言い回し、漢字の変更がしてありますできるだけ意味が変わら ないように配慮しましたが、なにぶん私は若輩者なので、失礼があればお許し ください。
見鞭影而後行即非良馬、持訓辞而発志實非好僧
この二句が全文の首領にして禅師の意志もここにあります,故にこの二句、 そのまま禅師の意志どうり、お互いが実行していれば以下の文句は所詮蛇足で す。故にこの二句は、頂門の一身でありまた闇夜の灯明です。
鞭の影を見て後に行くは良馬にあらず
これは読んで字のとおりなので説明の必要もないですが、その馬について説 明すると
或経文の中に馬に四種あり、とあります。
第一は、鞭を待たずして飛びだす、
第二は、鞭の影を見て速に走る、
第三は、鞭が毛に触れ、漸く動く、
第四は、鞭が肉に触れ骨に達して、いやいや行く、
これは発心入道する人の機縁を四種の馬に擬したもので発心入道の機縁に
諸行無常、是生減法より、発心入道するもの、
生者必滅、會者定離より、発心入道するもの、
飛花落葉より、発心入道するもの、
顛倒迷妄の理より、発心入門するもの、
三途八難の責を恐れて、発心入門するもの、
三界火宅のくを嫌うて、発心入道するもの、
身の不浄を観じて、発心入道するもの、
四恩を報ずべき心より、発心入道するもの、
一句無味の公案より、発心入道するもの、
現在、発心入道した人は、以上の発心入道の機縁を聞いて、なるほどと思わ れるでしょう。
禅録の中に
外道問佛、不問有言不問無言、--世尊良久--外道讃歎曰、世尊大慈大 悲、開我迷雲令我得入、--外道去後、阿難問佛、外道有何所證而言得入、佛 云、如世良馬見鞭影而行、と、大覚禅師は佛の云われた、この言を拝借なされ たものと思います
発心入道した人は、馬の耳に念仏ではいけません
快馬一鞭、快人一言、 快馬は一鞭にして翻飛するが如く、大覚禅師の 一言に依り大悟徹底する快人となれ!!
訓辞を持って志を発するは實に好僧に非ず、
実際禅師のいわれる通り、訓辞を持たずして志を発せし人は世界に一人もあ るなし、試みに古今の歴史を紐解いてみても、英雄という英雄、豪傑という豪 傑、君子も大人も、誰もが先輩の訓辞に依るか、自然の感化に依るかしなけれ ば、英雄にも豪傑にも君子にも大人にもなれません。
しかしもし過って、我こそは古人先輩の訓辞を持つものと唯我独尊を自負した ら、それこそ愚の骨頂、生きていたら世の邪魔もの死んでは地獄のかすとなる より他に有りません、反省して自照すべし
されど草木國土悉皆成佛、-- 一切衆生悉有如来智恵徳相、ということを忘 れてはいけません。
白隠禅師曰く、「衆生本来佛なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、 衆生の他に佛なし」と佛は凡夫の悟りし人、凡夫は仏の迷いし者、--「玉、 磨かざれば光りなし、人、学ばざれば智なし」玉、始めより光りなし、人、始 めより智なし、玉は磨くが故に明光を発し、人学ぶが故に霊智を生ず。
沙彌からすぐには長老にはなれません、そして長老になろうと欲せば先ず以っ て沙彌の本分をまっとうすべし、凡僧ではすぐに高僧には慣れぬ、高僧足らん と欲せば先ず以って凡僧の本領をつくすべし、お互いを馬とすれば良馬に有ら ず駄馬、僧とすれば好僧に有らず凡僧、凡僧なら訓辞を持つべし、駄馬なら鞭 影を受けるべし
次に訓辞の一端を示します。
「世の中の人のつかさとなる人の
身のおこなひよ正しからなむ」
「世の中の事有る時にあひぬとも
おのがつとむるわざな忘れぞ」
「たらちねの訓の庭は狭けれど
ひろき世に立つもとゐとはなれ」
「思うこと貫かずしてやまぬこそ
大和おのこのこころなりけれ」
「我とわが心おりおりかえりみよ
知らず知らずも迷ふことあり」
「何事も思ふが侭にならざるは
かへりて人の身のためにこそ」
「並び行く人にはよしやおくるとも
正しき道をふみなたがへそ」
「世の中に危なきことはなかるべし
正しき道をふみたがへずば」
「人もわれも道を守りてかはらずば
このしきしまの國はうごかじ」
「心ある人のいさめの言の葉は
やまひ無き身のくすりなりけり」
「天だれにくぼみて意志もあるものぞ
貫きとほせやまとだましひ」
「我と我が心おりおりかえりみよ
しらずしらずもまようことあり」
「一唱南無佛、即滅無量罪」
「是日己過命亦隋滅、如少水魚斯有何楽」
「眞如界内絶生佛之假名、平等恵中無自他之形」
「青青翠竹總眞如、鬱々黄花無不般若」
「出眞言葉、千里應之」
「無道人之短、無説己之長、施人愼勿念、受施愼勿忘」
「君子對青天而懼、聞雷電而不驚、履平地而恐、渉風波而不疑」
「憂の國にも希望の日影あり、絶望の淵にも明玉の光を在す。」
「人に羨まるる人になるより、人に感ぜらるる人になれ」
「吾々の名を擧ぐることより、吾々の實力を養生せよ」
「道徳的の因果律を信じ且つ實行せよ」
「一書恩徳勝萬玉、一言教訓重千金」
古人の訓辞は千載の寶、千聖の訓辞は一生の守り、お互いは、つとめて駄馬 となり凡僧となり以上の訓辞を能く守り能く行えば、駄馬変じて良馬となり、 凡僧化して好僧となる。
諸兄弟、同じく清浄の伽藍に住して己に饑寒の苦しみなし
是より以下は末尾まで全部、禅師の心肝五臓より流れ出たる親言親句、本分 の諸兄弟は、親しみの言葉、諸君、または同行衆、と言う意味です。清浄の伽 藍は、建長寺のこと(皆さんが住んでる住まい)、饑寒の苦しみなしは衣食に 不自由しないことをいいます。
皆さん考えてみてください、沢山ある国の中には年々歳々、戦争に苦しんでる 国がある、多い人の中には日々夜々、衣食住に困ってる人がいます。 私たちは幸せです、戦争国に生まれず、多少の不自由が有っても衣食住には困 っていない、しかし上を見れば上には上があり、手もぬらさず、足も動かさず 鼻先で人を使い、「楽しみは後ろに柱、前に酒、左右に女子、懐に金」という 快楽三昧に一生を送る人もある。 そうかと思うと下には下がある、明けても暮れても、汗水になり働きとおして も「苦しみは後にみそか、前に盆、左右にかたき懐に借金」というふうに報わ れずに一生をすごす人もいる。
訓辞がなければ、快楽三昧の人を見て、ひがんだり、もしくは人道を踏み外 すかも知れない。
訓辞があるがために、救われない人に対し、ああ気の毒だ、と思う同情心が 動くと共に自己を顧みる心が起こる。
明らかに、訓辞の力が強いかが分かると思います。
本来禅者たる者は、古くからは、三衣一鉢、樹下石上、是こそが眞の禅僧 の衣食住しかるに現在屋根の下に住み飽食暖衣は、大なる違反不心得千万と思 わなくてはいけません。 この身に楽しみあらんよりは、この心に愁なきにいづれ、身の楽しみは一時 の楽しみ、心の愁は永劫の愁へ、肉體をして清浄の伽藍に住して飽食暖衣する より寧ろ精神の伽藍に住し(心境一如)暖衣飽食(法喜禅悦)する、それが発 心入道したものの先決問題です。
當に此の事を以て、これを念うことここにあるべし
抑々此の事とは作麻生--曰く一大事因縁、その一大事とは、--曰く生死 の根元を裁断する是なり、--その生死の根元を裁断するとは、--曰く、自 己本来の佛性體得することである。
自己本来の佛性を体得して後に、上求菩提、下化衆生、禅者の禅者たる本領 は、上求菩提下化衆生の他になにものもなし、
達磨大師の訓辞に
外息諸縁、 内心無喘
心如墻壁 以可入道
とある、外諸縁を息めということは、外部の一切に対し迷動せざること、内 心咳くことなしというのは内部の思慮分別を起こさざること、心、墻壁の如く にというのは正式に正坐し純一無雑の三昧に入り去ること、以て道に入るべし というのは、そうすれば自然に本具の佛性を体得することができる。 といっても聞くは易く、見るは難し、見るは易く、行うは難し、他の物と異 なりこの事ばかりは眞箇実際に冷暖自知しなければ自救不可です、要は勇猛精 進の4字勇猛精進であれば、如何なる愚夫愚婦といえども一朝にして本具の佛 性を体得し三界の大導師となることができる、これに反して不勇猛、不精進で あれば、いかに博学多才の人といえども本具の佛性に拝顔することは到底でき ません、
古人曰く
勇猛の衆生のためには成仏一念あり 懈怠の衆理のためには涅槃三祇にわたる
とある、無論この事を成就するには猛攻精進が最大入用であるが、ややもす ると熱し易きは冷め易しで、急熱の人ほど急冷しやすい、急熱は愛すべし急冷 は悪むべしせいては事を仕損じる、と言う諺もあります、また大器晩成という 句もある、注意する所は急熱急冷ではなく、始めたら徐々に宿志を貫徹するよ うに。
白隠禅師の訓辞に
岩下有流水、 滾々無休時、 禅心若如是 大悟豈其遅
とあります、静かに静かに一歩は一歩より高く、次第に次第に教山に登り、一歩は 一歩より深く順序正しく禅海に入るべし。
「往く末は海となるべき渓川も
しばし木葉の下くぐらん」
「怠らず行かば千里の外もみん
牛のあゆみのよしをそくとも」
頓悟漸修ということもありますが古人の多くは漸修頓悟です。
霊雲の桃花、然り 香厳の撃竹、然り 無門の雷聲、然り 無学の撃砕、然り
されど気長にもほどがある、余り気長にしていると 、所詮、日暮れて道と ふしという轍を踏む、したがって気長にもほどが有ります。
「此の事を以って[玄玄](これ)を念ふこと[玄玄](ここ)にあるべし」の 句の中に肝心必要の一字があります、この肝心必要の字は、[玄玄]にあるべ し、という[玄玄]という一字この一字は禅師訓辞中の大眼目にして大骨子で す。
[玄玄]とは華竟、何れの處を指す、曰く現今、--曰く目下、--曰く只 今、--之是れここだ。
ありがたきことには現今清浄の伽藍に住し、目下、只今、饑寒の苦しみな く、楽々修行できる、ここが大切です。--昨日は既に去り、明日は未だ来ら ず、確実に明瞭にあるものは、ただ[玄玄]の今日現在あるのみ。
古人いわく、 人身受け難し、今既に受く、此身今生に向つて度せざれば、 何れの處に向つて度せん、と実に然り、普通は皆、道理に闇きがために、人身 は容易に受け得られるものと思ってはいますが、違います、実際は然らず。
昔、世尊、阿難を召し、御手の爪に土を載せ、問うていわく、阿難よ、大地 の土と爪上の土、何れが多きや、阿難答えて曰く、大地の土は多くして爪上の 土は少なし、世尊曰く、其の道理が解せたら更に申し聞かすことがある、近前 来来夫れ人間に生を受くる者は爪上の土より少なく稀にして、悪趣に生を受く る者は土より多いぞ、と訓辞なされた、知るべし人身の受けがたきことを
経文には、一度、人身を失すれば萬劫にも帰らず、と人身の失い易きこと斯の 如し。然るに幸なるかな、容易に受けがたき其の人身を受け、その上清浄の伽 藍に住し饑寒の苦しみを知らず、此の時、此の際、この一大事を体得しなけれ ば、再び人身を受けることはないとおもい、今、大死一番絶後再活するべき
私はまだ壮年だとか、先が長いとか思っていても、無常の風は時を嫌わず、 貴賎も貧富も老若男女も差別はしない、吹きたければ何時でも勝手気侭に吹き ます、恐ろしいことです。
「折り得ても心ゆるすな山桜
さそふ嵐の吹くもこそあれ」
「わかきとて歳をたよりに思ふなよ
無常の風は時を嫌わず」
「昨日まで人のことと思ひしに
おれが死ぬとはこいつたまらん」
こいうたまらん、と言っても、にげかくれは出来ません、死ぬより外に道な し。人の命は、呼吸の間にあり、出た息が出て帰らず、ひいた息が出てこなけ れば、それで、お陀仏。
眞箇此の事を体得せんと欲せば先ず以って兜率の三關に参ぜよ
第一、即今上人の性、何れの處にかある、 第二、眼光落時の時作麻生か脱せん、 第三、四大分離して何れの處に行くや、
これが眞箇、我がものになれば、既に生死を脱得し三界を出離した人という ことになる。
一處透れば、千處萬處、一時に透り、一機明かなければ、千機萬機、一時に 明らかなり、というものの、なかなかそうはいかない、抜群越格の人は別、普 通一般の人は、始めの透關が手ぬるいから、透關したといっても、夢の如く、 幻の如く、灯影裏を行くが如し、不明澄、不確実である。
若し活脱自在、圓転自由、宗通説通を得んと要せば、三關透過の後、更に去 って臨済の金剛玉寶剣、--南泉の遷化等の難透難解を大手を揮って経過し、 最後に法窟の爪牙、奪命の神符を体得し来れば、それこそ鬼に金棒、虎に角、 --獅子に羽、それはそれは転不転の處に向かって転じ、動不動の處に於いて 動ずることは朝飯前の茶である。
禅師は
眼光将に謝せんとするの時、其害甚だ重し、
と訓辞なされたのは未だこの事を体得せざる人に向かって言われたものです。 今までの事を事実に体得すれば、この一句は禅師に欽でご返却である。
所以に古人道く饒、汝ぢ諸子百家三乗十二分教に通ずるも、汝が分上に於 て並びに済ふことを得ず、
諸子百家は、世間一切の学問をいう、--三乗は、聲聞、縁覚、菩薩、-- 十二分教は、釈迦一代の経文、是は文家言句、聖経賢典等に没頭して、此事あ ることを知らず,画餅を以って飢えをしのごうと迷ってる人に対しての訓辞、 --透得底、悟了底の人はあって益なく、無くて害なし。
若し無漏の道を休めば、現在当来、誠に廣益をなさん
是は禅師の訓辞の通り、無漏の道を極めれば現在は無論のこと未来永劫、公 益あることは事実にしてあたりまえのことです。
且つ無漏の道作麻生か休めん
無漏の道とは言い換えれば[玄玄]事のことです。
是之の無漏道、-- 禅師の真意義、華竟那邊にあるか、それは到底、一般 の察知を許さざる所
眞箇の無漏、そのもの本体には、佛祖といえども近傍するあたわず、まして その他の人に於いてをや、--所詮、聲前の一句千聖不転底、言語道断、心行 所滅というより外にない、もう少し掘り下げると。
天に二日なく、地に二王なし、尽乾坤只一人、上片瓦入頭を覆ふなく、下寸 土の足を立するなし、虚空消損し鐵山砕、--かくいえばいうようなものの、 実際は双耳、つんぼの如く口、唖に似たり、一言一句でもかれこれといったら 一思一念でもかれこれと分別したらいけない、故に無漏道の玄々々、妙々々は 唯佛興佛に一任しておき落草談となれば生死に迷うはこれ有漏、--生死を脱 するこれ無漏、--悟り悟りの臭気を洒脱したるは無漏、--悟り悟りに没頭 しているのはこれ有漏、--しかり、言うべからず黙すべし、いえばいうほど 無漏道に遠ざかる、語れば語るほど無漏道にそむく、眞箇の無漏道は實参實悟 です。
毎日一箇の屍骸を施いて上々下々喜笑怒罵、更に是れ阿誰そ、
この句は無漏道についての手引きです、禅師の訓辞通りやれば早晩無漏道は 我がものになる、--屍骸とは、この身体、--上々下々とは、座作進退、阿 誰は何物だと言う意味です。
毎日毎日右往左往、南去北来、順境に接しては喜び笑い、逆境に面しては怒 り罵り、すむの、すまぬのと頭出頭没している、それは抑々なにものがする、 誰がなさしめる、--それはこの身体がするといえば無論身体であるが、身体 そのもの独りでは出来ぬ、なにものかが蔭で糸を引いているぞ、なにものかが 指揮をしているぞそれは一体誰だ、--照願せよ、自省せよ、--臨済禅師 は、「赤肉團上に一無位の眞人あり、常に汝頭諸人の面門より出入す、未だ證 據せざるものは看よ看よ」と言われた、総ての事はこの無位の眞人がやってい るのである、その無位の眞人とは、--この無位の眞人が手に入れば無漏道も この事も一時に体得することが出来るとしたものだ、--處が、
百人の中真実、此に於て頭を回らし返照する者鮮なし、
禅師のいわるる如く、衣食に奔走し、名利に驅馳する人は古住今来、麻の如 く粟に似て、到る所、行く所に群をなし隊をなして居る、何れも何れも己に迷 ってものを遂い、真実この事に注意を払い心を用いる者のなきは末世末法も眞 面目露堂々、嗚呼残念、--嗚呼遺憾、--と禅師は心で泣いている。
纔に不如意の事あれば便ち瞋詬して行く。此の如きの者、何ぞ止一二のみならん。
このごときであるから泣かずにはいられない、--道心だにあれば、たとえ 口に食なし、身に衣なく、坐するに所なしといえども、指南してくださる名師 だにあれば十年でも二十年でも、この事、成就するまでは、如何なる辛苦で も、如何なる困難でも来れ来れ更に来って我が忍耐の力を試みよという大決心 があれば、押し出しても、引き出しても貧乏動きするものでない、(古人にこ の例少なからず)それでこそ無漏道が手に入るのだ、--然るに無道心の人 は、清浄の伽藍の住し、饑寒の苦しみなきその上に天下無類の大宗匠に参じな がら、針の先ほど心に違うことがあり、爪の垢ほど思うようにならぬと、忽ち 意馬心猿の悪魔に引かれ、義理人情も一切忘れ瞋詬して行くとは実に人非人と いうべきか、悪魔外道というべきか、言語道断、獅子身中の害虫だ、--三十 棒は無論のこと、殺しても、まだ足らぬ、--とはいうものの叩けば棒がけが れ、殺せばあとが、叩かず殺さずおととい御座れといって塩を振りまくのが上 策、--昔既に然り今日は層一層、無道心の人が多い
参禅弁道は、只此の生死大事を了せんが為なり豈沐浴放暇の日も、便ち情 を恣にして懶慢す可けんや。
重ね重ねのご親切、柄が如き(菅原老師)はこの一句を拝読して思わず涙が こぼれる実際参禅弁道は、この生死の大事を了せんがためである、生死の大事 とはいうまでもなく、見性成仏、悟ること、--学問がしたければ、学問を教 える所がある、権位が握りたければ、権位を世話する商店がある、この禅堂は 学問を研究する所でなし、権位を売る所でなし、蓋し学問以上の学問、権位以 上の権位、その学問、その権位を実参実悟する天下の大道場、容易に入門を許 さぬ所、然るに幸にも入門したる人は沐浴のときも放参時もこの事三昧になら ざるベからず、--孔子は造次にも必ず[玄玄]に、顛沛にも必ず[玄玄]に、と いえ、--古人は暫時もあらざれば死人に如同す、といっておられる然るに、 その日暮らしの無慚愧漢、--履歴取りの偽禅僧、形、沙門に似て心に慚愧な く、身に法衣を着けて心、俗塵に染まる、という古徳の造言そのまま実行して いるとは意外意外、無慚愧の漢や履歴取りの偽禅僧にならないように訓辞を心 に銘じ、禅師の意志に違反せぬようにしないと、木造開山禅師が怒りでるぞ 長老首座区々として力め行って、誰が家の事を為すと云うことを知らず。仏袈 裟を[才圭]け、信施の食を受く、苟も見処無くんば、侘時[哉-口+異]角披毛千 生、万劫他に償ひ去ること在らん。
全くです、毎日毎日この事を仕用しつつ、くる日もくる日も無漏道踏みつつ それを知らず、それに気ずかず、獅子皮を被して野干鳴をなし、佛袈裟を着け 他の信施を貧っていては、無論、そのお礼として披毛戴角は是非なきことで す。--それも一生や二生であれば我慢も出来るが、千生萬却と聞いては、少 々所ではない、大いに考一考しなければならない。
人は牛馬になって見たことがないから、牛馬の苦痛は知らないけど、見た所 では牛馬の生活はあまり羨ましく思われない、貧乏でも馬鹿でも、首の上がら ぬ下積でも、人間の方が牛馬より遥かに苦痛も少ないし楽しみが多い、折角人 間にこの身を受けながら、強てのその権利を放棄するには及ばない、--牛馬 となってご恩を報謝する、その心で参禅弁道に全力を傾け、一朝生死の一大事 を了畢し来ればそれこそ、天下晴ての禅僧--三界の大導師、--如来の再 来、--活達磨、--斯くなれば信施の食を受けてやればやるほど施したその 人が成仏する、--時と場合に依り遊化に牛になるも馬になるも又一興、-- 愉快の根源は大事了畢、--自在の種子は大事了畢、--果たして然らば是非 とも大事了畢せざるベからず、--過去の失敗、過去の不心得は一切水に流 し、更に只今より心機一転して参禅三昧になるべし、ならざるべからず。
今より後沐浴の日も、昏鐘鳴より二更の三点に至り、四更に転じ、暁鐘の 時に至るまで並びに坐禅を要す。
坐禅だ坐禅だ、大知恵は大禅定より出づ、玉を探らんと欲せばしばらく波を 沈むべし坐禅坐禅坐禅して心中の大波小波を沈むべし、さすれば眞智の宝玉は 自然に現出する、--一寸座れば一寸の仏、寸々積で丈六の金身となる、-- 刻苦光明必ず盛大、--仏という仏、祖という祖、何れの仏も何れの祖も、坐 禅を閑却して仏となり祖となりし例は未だかつてあることなし、昼は無論のこ と夜も坐禅々々坐禅三昧になれ--でもある人はいう、それは出来ぬ、多少の 休息くらいは、--やいこの大馬鹿者、君は呼吸をして居るだろう、呼吸に休 息があるか、--ない、ないなら呼吸と同じ様に坐禅をしたら坐禅というて特 別に禅堂へ入り込み、四角四面になって坐するものも坐禅であるが、それは形 の坐禅だ、眞箇の坐禅は、行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静、悉く是禅、こ の坐禅をしなければ坐禅をしたとはいえぬ。
堂に皈せず、寮に趣く者は、罰して院を出さん。
禅堂は娯楽所にあらず、集合所にあらず、また浮浪者を置く所でない、眞箇 熱心に参禅弁道する人を置く所、故に選佛道場という、然るに無道心の輩は、 その深意を忘れ、徒らに飽食暖衣、ほしいままに信施を受け、貴重の光陰を無 意味に空過する、実に許しがたき一種の悪魔である一個の悪魔は千百の善者を 害す、速やかに下山すべし、即時に退院せよ、と厳命なさるるは、思うに禅師 の大慈悲心、やむにやまれぬ親切心、--元より退山を望むにあらず、下山を 望むにあらず、要する所は懈怠の精神を一転し、勝手我侭の居動を一掃し名実 相応の禅僧となり、大事了畢、佛祖にかわって一切衆生を教化なさしめんがた めの慈厳双行の血滴々、--例せば臨済禅師が遷化の際、三聖の一偈に対し、 我が正法眼蔵は、此の[日害](ケツ)驢邊に向かって滅却せん、といわれた、 それと蓋し同一筆法である、--いやしくも禅師の法恩に浴しつつある現在は 流行歌か一時の標語を口まねする気で軽々に此の法語規則を看読したら罰があ たる、禅師の深意を徹底的に心読し、一日も早くこの事を成就し、大寂中に御 座る禅師をして、御心を安じ奉ることが報恩謝徳の一である。
堂中行う所の事略一二を呈す。事略一二を呈す。各々宜しく自ら守るべ し。この規を犯すこと勿れ。謹んで屯に奉聞する的文具に非ず、住山蘭渓道隆 白す
これは訓辞の、結文、一読了解が出来ます、故に駄弁は加えません、--以 上の訓辞は禅師の血であり涙である、故に一時一時山の如く高く、海の如く深 し、登れば登るほど、入れば入るほど、悠々高く悠々深し、--一句一句毒薬 であり醍醐である、喫すれば喫するほど、呑めば呑むほど、玄々々の風味が出 ます。
畢竟如何
「良薬苦口利於病、 忠言逆耳利於行」
「剣為不平離寶匣、 薬因療病出金瓶」
「倒把少材無孔笛、 須風吹了逆風吹」
久立珍重、
講了
憐子親心破沈黙、 弄来婆口失同情
是非己落傍人耳、 洗到驢年也不情
雪上の霜土上の泥ではあるが、老衲)が慈悲心の一端を述べさして頂 きましょう。
何事でも最初が大切、この本正からざれば、その末、自ら腐る、其の始め堅 からざれば、其の終わり随がって破る、故に苟も禅僧となり禅を修行せんと切 望する人は、先以て其の本を正しく其の始めを堅しくする必要がある、其の本 とは何に、其の始めとは何、他なし曰く四弘の誓願是なり四弘の誓願は、
衆生無辺誓願度、 煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学、 仏道無上誓願成
仏教者の常にいう、自利々他、覚行円満、是之を事実に体得し転用せんと欲 せば是非とも此の四弘誓願を本とし始めとしなければ、労して功なきのみなら ず寧ろ害有って益なし、故に三世の諸仏、歴代の祖師、何れも何れも四弘の誓 願を本となし始めとせざるなし。
第一の衆生無辺誓願度(是は利なり)
普通一般の人は、自利を以て先をなすが禅僧は然らず、利他が目的、--抑 々一切の衆生を見るに、善悪邪正、是非得失、生老病死、それに苦しみ、それ に悩み、それに迷うて永劫浮かぶ瀬なし、是等の迷い是等の苦しみ是等の悩み を一時も早く、一刻も速やかに救うてやりたい、助けてあげたい、という人は 人情の然らしむ天性である、されど自分自身が、迷うて居たり、悩んで居ては 思うのみにて如何ともなす能はずである、故に第二の句
第二の煩悩無尽誓願断(是は自利)
自利といっても単なる自利ではない、利他を完成せんが為の自利であるから 同じ自利でも普通の自利とは天地の差が有る、如何に自利するか
第三の法門無量誓願学(自利)
利他の為には自己の活動を自由自在に出来得るように、なしをかざれば、到 底利他は出来ぬ、故に無量の法門を自得し、而して
第四の仏道無上誓願成(自利)
人格完成者たる仏と同体になり、祖師と不二人ならざれば衆生済度は出来 ぬ、--以上の理由で四弘誓願が自然天然に出現したのである。
四弘に各々誓願各々とあるは、是非とも、断しで、必ずという意である、四 弘の誓願は願中の願で、極めて正し、至って堅く、是を以て本となし、これを 以て始めとなし、修行の歩を進めれば、行くとして正しからざるなし、而して 作せば作すとして堅固ならざるなし、
心得るべきことを二三擧げてみましょう。
丈夫自有衝天気、 不向如来行處行、
是之の気概なかるべからず、
寧可永劫沈倫、 不求諸聖解脱、
是之の鐵膽なかるべからず、
寧可熱鐵纒身、 不受信心人衣、
是之の清節なかるべからず、
されど未透底の時は、
要明向上鉗鎚、 須是作家爐鞴、
斯くすべし、斯くせざるべからず、
大悟透底の後は、
凛々孤風不自誇、 端居寰海定龍蛇、
時節到来までは聖胎養、二十年でも三十年でも、
相罵饒倆按角、 相唾饒倆溌水、
是之の忍耐なかるべからず、
時に臨み、
展翅鵬騰六合雲、 摶風皷蕩四溟水、
變に応じ、
一亳端現実王刹、 微塵裏転大法輪、 又は
没底藍兒盛白月、 無心椀子貯清風、
要は総てに於いて、
竹影掃[土皆]塵不動、 月第潭底水無痕、
でなければならぬ、果たして然らば、
終日行而未會行、 終日説而未會説 となり、–是は失敬、老僧の閑言語を諸君のお耳に入れ、或は一層の垢を添 えかもしれぬ、老柄の年にめんじてお許しください。
華竟如何、木馬[口斯]風、泥牛[口孔]月、
おわり